不倫はいつ始まったのか?(上)


4回映画化された不倫の名作。
これは1942年、ヴィスコンティ版

ルイ・マルの不倫の名作。(1958年)
どちらも夫が殺され、結末は悲劇

 今に始まったことではないが、テレビのワイドショーは不倫ばやりで、最近は芸能人ばかりでなく政治家、それも女性議員が不倫戦線に雄々しく、いや女々しく参戦している。
 今更、不倫の話題などどうでもいいのだが、真面目な女性議員も多いだろうに、暴言・失言・不倫で騒がれることが度々だと、女性議員はろくでもないという印象ばかりが強くなってしまう。

 昔、指3本の御手当てで女を囲っていた首相がいて、不倫が原因だったのか指3本がけち臭かったのか、いずれにしても首相を辞任することになった。
 3.11のときに首相だった当時の民主党の首相だって、その前に女性問題を起こしている。

 女性議員だけを責めるのは不公平だが、だからといって不倫ぐらいいいじゃないかと言ってるわけでもなく、男でも女でも浮気心くらい誰でも持っているんじゃないかと勝手に想像しているので、書いていても歯切れが悪い。

 ただ議員の場合は、多額の税金を使って政治活動をしているので、不倫出張や宿泊代に政治活動費、つまり税金が使われているとなると、やっぱり議員を辞めろと言いたくなる。

 これは僻みでいうのではないが、こうした問題を起こす議員は、山本モナさんとの路上キスで話題をまいた男性議員を含めて、比較的美男美女が多い。
 見てくれが良いのも選挙で当選するためには必要なことで、だから議員としての資質よりも顔で政党が候補者を擁立しているというつもりはないが、でも、そう言いたい。

 もっとも、見てくれのいい候補者に投票して当選させている有権者にも責任はあって、悪人面の小沢一郎さんがこれだけ政界からスポイルされても当選する方が不思議なくらいだ。

 見てくれで当選した議員たちは、きっと当選する前から異性にモテたであろうし、浮気心が無二の親友だったかもしれない。
 当選して政治資金で浮気ができるとなれば、機会にさえ恵まれ、そこにイイ男イイ女がいれば、つい浮気心が湧いてしまうのだろう。

 これが互いに独身同士なら誰に咎められるわけでもない。
 そういえば若い議員同士の結婚も何組かあったし、独身男女の増加が社会問題となっている今日、国会議員が国会議事堂を婚活の場として利用するのも、立派な政治活動といえるだろう。
 それからいえば議員の不倫だって立派な少子化対策・・・って、子供ができたらやっぱりまずいな。

 夏の疲れが出たのか、何を書いているのやら、脳味噌はふにゃふにゃ、筆は汗で滑る。

 さて、不倫という言葉はいつからあったのか? 
 本題に入ろうとしたところで、すでに長くなった。
 以下次号・・・って不倫くらいで連載にするか?

東京地名考─ヨシが生えていた吉原はどこにあったか?(下)

正保江戸圖(東) (2) (367x275)
正保元年頃。下(東)が隅田川、鼠色が湿地。
間に描かれているのが浅草寺、右の直線が日本堤
江戸方角安見図鑑乾26 (2) (367x275)
延宝7年。右(東)の四角い一角が新吉原。上の直線が日本堤。
廓の周りに田圃が広がっている
長禄江戸図 (2) (367x275)
長禄江戸図。中央が千束池、上にあるのが不忍池。
下(東)が隅田川で千束池との間に浅草寺が描かれている
大門通 (367x291)
 『江戸名所図会』大門通の賑わい
日本橋北神田浜町絵図 (2) (367x275)
江戸後期の元吉原付近。右(東)・浜町川、左・東堀留川。
浜町川から下に伸びるのが竈河岸
元吉原IMG_0453 (367x275)
元吉原にあった浪花町の暖簾の下がる店

 日本橋から吉原が移転した千束は当時、田地だった。
 移転した明暦3年(1657)より前の正保元年(1644)頃の江戸図を見ると、浅草寺の北に大きな湿地が広がっているのがわかる。
 この湿地で稲作が行われていて、延宝7年(1679)の地図からは、新吉原が田圃の真中にあることがわかる。

 新吉原の北に日本堤という町名があるが、江戸初期に隅田川の氾濫を防ぐために築かれた堤防の名が由来で、隅田川岸の待乳山から三ノ輪にかけてあった。
 現在土手通りと称される道が日本堤の跡で、関東大震災後に崩されている。
 日本堤の名称の由来については、待乳山から山谷にかけてもう1本土手があり、合わせて二本堤と呼ばれていたのが日本堤になったという説や全国の諸大名が築堤を命じられたからという説があるが、はっきりしない。
 
 ただ、いずれにしても新吉原の地は隅田川の氾濫原だった場所で、古地図を再現した長禄江戸図(1457~1460)には浅草の北に大きな沼、千束池が描かれている。
 千束の地名の由来については、稲1000束が収穫できる稲田を意味したというのが通説になっている。
 鎌倉時代にはすでに千束郷と呼ばれていて、江戸時代に入ると広く一帯を千束村と呼んだ。

 大田区に千束という地名があるが、この地にある大池が灌漑用の水源に利用されたことで1000束分の稲が免税となったことが地名の由来だとされている。
 この大池が現在の洗足池で、近くに日蓮宗の池上本門寺があることから日蓮がここで足を洗ったのが地名の由来だとする俗説も生まれたが、日蓮以前の平安末期に千束の名が登場している。

 大田区の例からも、由来はともかく千束が稲田に関連した地名であることは蓋然性が高く、葭も繁っていたであろう湿地の浅草千束もまた、新吉原に相応しい地だったといえる。
 新吉原も元吉原と同じように、廓内に京町、角町、江戸町、揚屋町、仲之町がつくられた。

 さて元吉原だが、寛永9年(1632)の寛永江戸図には、外堀で囲まれた元吉原が描かれていて、廓内に江戸町などが記されているのが見える。
 元吉原は遊郭のなくなった明暦3年以降も商業地として栄える。
 『江戸名所図会』には大門通りが描かれ、「今は銅物屋(かなものや)・馬具師多く住めり」と書かれ、燭台や器・具足などを商っている店の前を人々が行き交う賑やかな様子が描かれている。

 元吉原は、和泉町・高砂町・住吉町・浪花町となり、外堀に囲われていたが、南の竈(へっつい)河岸と東の浜町川を残して早い段階に埋め立てられた。
 竈河岸の埋め立ては明治初期、浜町川は戦後に埋め立てられている。
 竈はかまどのことで、竈河岸は竈屋が多くあったことからの俗称という。

 各町名は明治以降も残っていたが、昭和初期に新和泉町・高砂町・住吉町、昭和55年(1980)に浪花町が消えている。
 現在は、人形町2・3丁目、日本橋富沢町のそれぞれ一部となっていて、人形町2丁目に飲食店が多く並んでいるほかは、事業所などのビルが多くなっている。
 もっとも終戦後、母が日本橋に住んでいたことがあって、この界隈を派手な服装の女性が多く歩いていて嫌な感じがしたというから、近年までは花街の名残りがあったのかもしれない。

 浪花町が消えて、吉原はおろか元吉原の名残りを留める町名もなくなった。
 この地がかつて葭原だったことなど思いもしない。
洗足池IMG_9197 (367x275)
大田区の洗足池

東京地名考─ヨシが生えていた吉原はどこにあったか?(中)

1632武州江戸庄図(寛永9) (3) (275x367)
寛永9年(1632)地図。京橋の右下(東)に"ぐそく丁"がある
1632武州江戸庄図(寛永9) (2) (275x367)
左上は日本橋。右下(東)の掘割に囲まれているのが元吉原
元吉原IMG_0461 (367x275)
元吉原の名残りを留める大門通り
親父橋IMG_8658 (367x275)
かつての親父橋付近

 江戸後期に書かれた『墨水消夏録』は、吉原の始まりについて以下のように記している。

 慶長の始めというから、徳川家康が北条氏を討伐し、江戸に入って間もない頃、北条家の浪人だった庄司甚右衛門が、駿河の宿屋の主25人と相談して、これからは江戸が繁昌するだろうと女たちを引き連れて江戸に下り、大井に開いた遊女宿に始まるという。
 なぜ江戸ではなく品川宿の入口の大井だったかというと、さすがに御城下に遊女宿を開けば御咎めがあるかもしれないと怖れたのだという。

 店の長暖簾に鈴を付けて、それが鳴るのを合図に女たちが客を迎えに出たといい、入口付近に神社の杜があったことから、この地が鈴が森と呼ばれるようになったというが、一般には、この磐井神社に伝わる鈴のような音のする鈴石が地名の由来だと伝えられている。

 家康が品川に鷹狩で訪れた際、庄司甚右衛門以下25名が遊女に茶を運ばせ、御城下での営業を願い出、京橋具足町の東にある汐入を拝領して埋め立てた。京橋具足町は現在の京橋3丁目になる。
 町は丸く地取りされ、北を柳町、南を角町、中の通りを中の町と名付けた。
 さらに十字に南北の道をつけ、町の形が十字に組んだ柄に丸い輿(こし)が乗っているように見えたので、輿町と綽名されたという。

 揚屋・茶屋などが並んで繁昌するようになるが、江戸のあちこちに遊女屋ができるようになって風紀が宜しくなかったことから、元和3年(1617)、庄司甚右衛門は遊女屋を一ヶ所に集めることを幕府に願い出て、堺町の東の葭沼を拝領した。堺町は現在の日本橋人形町3丁目になる。
 これが吉原町の起こりとなった。

 吉原は桝目に京町・角町・江戸町・江戸町二丁目・揚屋町の5町からなり、入口に大門口、中通りを中の町を呼んだ。中の町は後に大門通りと呼ばれるようになり、今に名を残している。

 吉原の西に葭沼の汐入があったため、水を捌いて客が往来できるように橋を架けた。
 庄司甚右衛門が中心となったが、25名の中でも年長で親父と呼ばれていたことから、この橋を親父橋と呼んだといわれている。
 親父橋は、戦後まもなく東堀留川が埋め立てられるまで残っていた。今は橋の袂だったビルに銘板が掛かっている。

 明暦2年(1656)、幕府から浅草寺北への移転を命ぜられるが、たまたま年明け正月の明暦の大火で吉原が焼け出され、本所弥勒寺に仮移転した後、浅草寺裏の千束に本移転する。
親父橋IMG_8657 (275x367)
親父橋の案内板


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