東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(5)

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神田青果市場の跡地に建つ秋葉原UDX

 東京市中央卸売市場神田分場は、昭和37年(1962)の神田市場への名称変更を経て、平成元年まで秋葉原駅電気街口北側にあった。
 その跡地に建ったのが秋葉原UDXで、ここに神田青果市場があったことを覚えている人も多い。

 近くに電気街があったこともあって、子供のころから秋葉原を訪れるたびに市場を目にした。
 もっとも外周ばかりで中に入ることはなかったので記憶も朧気で、市場を出入りする人々やトラックくらいしか印象がない。

 当時の秋葉原駅は今とは違っていて、市場と貨物駅は山手線を挟んで東西を分離する障壁だった。
 私は日比谷線の秋葉原駅を利用することが多く、昭和通り出口から電気街や交通博物館に行くためには、貨物駅を迂回しなければならなかった。

 北側のガードは現存しているが、事業所の建物や倉庫、青果市場しかない道で、一般人にとっては至ってつまらなく、ほとんど利用することがなかった。

 南側はかつて神田川と貨物駅の船溜まりを結ぶ水路があったが、昭和30年代に入って埋め立てられている。
 水路に架かる橋はしばらく残ったままで、その橋を渡って貨物駅に沿った路地をクランクに曲がり、現在万世橋署のある通りのガードをくぐると、ラジオ会館や秋葉原デパートに行くことができた。
     
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戦後間もない秋葉原。貨物駅の西・神田山本町に市場がある
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昭和13年頃の神田青果市場


 この道筋は人の通りも多く、次第に電器店が立ち並ぶようになっていった。
 おそらくは、昭和37年(1962)の地下鉄日比谷線の北千住・人形町間の開通が契機だったのではないか。
 東武伊勢崎線の乗り入れも始まり、足立区から埼玉県越谷市にかけて新興住宅地が造成され、人口が急増していくことになる。

 秋葉原に行くのはたいがい休日で、従って市場は閉まっている。
 モータリゼーションとともに我が家にもマイカーが登場し、免許を取ったばかりの私はよく父を乗せて秋葉原に買い物に出かけた。
 買い物はもちろん電化製品で、休日で閑散とした青果市場の周りの道に駐車して、電気店に向かった。

 青果市場のぐるりはそうしたマイカーの路上駐車場となっていて、最初の頃は駅に近い場所に停められたのだが、自家用車の増大に比例して次第に北側へと離れていった。
 もちろん、当時は駐車違反ではなく、青果市場があった頃まで続いていたように思う。
 電化製品を配達してもらわずに持ち帰る。それも父から教わった値引きのテクニックだった。
 青果市場は、そうした思い出に結びついている。
 秋葉原の神田青果市場が廃止されたのは平成元年(1989)5月で、業者はこの年3月に完成した大田市場に移った。(続く)
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秋葉原UDXの前にある史蹟プレート
 


東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(4)

多町市場東京風景m4 (367x260)
明治の頃の多町青物市場

 神田川に近い多町には、小名木川・大川を経由して葛西砂村(江東区)方面から、平川に近い永富町には江戸湊を経由して上総・安房からの野菜が荷揚げされた。
 多町から昌平橋・筋違橋(江戸時代、万世橋のやや上流に架かっていた)を渡ると旅籠町があって、板橋宿・川口宿への街道筋になっていたことは、第1回に書いた。
 多町には陸路からも、練馬・三河島方面から大根などが馬で運ばれてきたという。
 遠くは紀州から蜜柑、甲州からは葡萄が運ばれてきた。

 延享3年(1746)の『葛飾上小合村明細帳』には、瓜・茄子・葱・牛蒡を千住町と神田土物店へ出荷したと書かれている。
 上小合村は現在の水元公園付近にあった村で、葛飾区と足立区の境を流れていた古隅田川を舟で運び、千住さらに大川・神田川を経て神田に運んでいたものと思われる。
永富町_江戸切繪圖俚俗内神田・鍛冶町・柳原迄 (3) (367x275)
永富町付近。通りに「土物店と云」と書かれている
   
 土物店は野菜市場のことで、主に根菜類が今でいう泥付き野菜だったことから、土物と呼ばれていた。
 江戸期の地図を見ると、多町・永富町の通りに「土物店」と記されている。
 大川沿いの千住は青物だけでなく川魚や米穀も扱っていたが、江戸の三大青果市場の一つだった駒込は青物だけだったので駒込土物店と呼ばれている。
多町_江戸切繪圖俚俗内神田・鍛冶町・柳原迄 (2) (276x367)
多町周辺。2丁目の通りに「土物店」の文字。
1丁目の右に青物御納屋役所
   
 地図には多町一丁目の裏、新銀町に青物御納屋役所がある。
 正徳4年(1714)、神田の青物市場は幕府の御用市場を命じられ、江戸城の台所を賄うことになった。
 こうして神田の青物市場は栄えていくが、明治維新によって青物役所は廃止になり、神田の市場は江戸城という大消費者を失うことになる。
 幕府の統制がなくなったために軽子橋・三輪・青山などに新しく市場が開設されたが、それでも神田の市場は発展する東京の人々に青物を供給する市場であり続けた。

 明治政府は帝都の中心部にある市場を何度か神田川の北に移そうとした。
 『神田市場史』によれば、市場が帝都の美観を損ねるというのが理由だったらしい。
 それでも市場関係者が拒み続け、実現は大正12年(1923)の関東大震災まで待たなければならなかった。

 昭和3年(1928)12月、震災で焼け野原となった秋葉原駅の北に神田分場が完成、多町周辺の青物問屋が移転して、東京市市設神田青果市場が開設された。
 この年の2月、移転直前の様子を書いた中外商業新報『新東京記』によれば、多町を中心とした神田青物市場の問屋数は229、仲買数は247で、東京市及び隣接地域の27市場の中でも群を抜いていた。
 市場の広さは15,000坪、多町一丁目・二丁目、佐柄木町、通新石町、新銀町、連雀町、須田町、雉子町の七ヶ町に跨っていた。
 移転する新市場は10,230坪と書かれている。

 昭和10年(1935)、新市場は東京市中央卸売市場神田分場として正式に発足する。(続く)

東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(3)

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上が神田川、下が日本橋川。筋違御門は
マーチエキュート神田万世橋(元交通博物館)にあった

『東京府志料』によれば、神田市場の起源は慶長(1596~1615)の頃だ。
 もっとも、市場と呼べるようなものになるのは少し時代が下る。

 明治31年(1898)の『風俗画報』第176号「神田青物市場の沿革」は、貞享3年(1686)4月、連雀町・佐柄木町・多町に散在していた青物商が集まって青物市場を形成したという。
 また明治25年12月8日の朝野新聞「徳川制度─青物市場─」には、寛永3年(1626)4月、筋違見附外河岸地(万世橋付近)に12軒の青物商が開店したが、河岸地での営業を禁止されたために永富町・多町・連雀町・佐柄木町に移転したのが青物市場の始まりで、明暦3年(1657)の大火で連雀町・佐柄木町の青物商が多町に合併したため、多町が繁昌することになったという。

 連雀町・佐柄木町は、現在の須田町1丁目・司町2丁目・淡路町1・2丁目にあった町で、多町2丁目とともに神田川の南の一画を形成していた。
 この南に接するのが多町1丁目で、現在は内神田3丁目の多町大通りの両側になる。
 永富町は更に南に離れた竜閑橋の北、現在の神田駅西口に近い内神田2・3丁目にあった。

 ちなみに青物市場の中心地となる多町(たちょう)の地名の由来は、江戸が開ける以前、この地が田地だったからで、もとは田町(たちょう)と書いたと『江戸図説』は説明している。
 神田は神社の所領となっている田地を指す言葉で、それが地名となっていることは「東京地名考─神田の三崎町と猿楽町に冠称復活」に書いた。つまり神田そのものが田地を意味した。

 江戸の三大青果市場といわれたのは、神田と駒込・千住だが、起源は駒込・千住の方が古い。
 駒込は元亀(1570~73)・天正(1573~92)、千住は天正の頃に始まるともいうが、市場が形成されたのはどちらも元和(1615~24)の頃ではないかといわれている。
 駒込・千住と神田の大きな違いは、駒込・千住が生産地に近い流通の要衝であったのに対し、神田は江戸の中心、消費地にあったことで、神田が市場として発展するきっかけとなったのが、神田川の開削だった。

 小石川より下流の神田川は人工河川で、神田山を削って水路を掘り、それまで小石川から南流していた平川を東流するように工事をした。
 この瀬替えが行われたのが元和6年(1620)で、第2期工事として水路を拡幅して舟が通れるようにしたのが万治4年(1661)。
 この2回の工事を受け持ったのが伊達藩で、そのため伊達堀、仙台堀とも呼ばれる。
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かつて青果商が並んだ、多町2丁目付近の多町大通り

 これにより川の両岸に河岸が設けられ、舟で運ばれてきた物資を荷揚げできるようになった。
 つまり神田川の完成により、神田川と南を流れる平川(現在の日本橋川)に挟まれた地区は集荷地として栄えることになった。
 神田は消費地における流通の要衝となったわけだ。
 これら物資には、材木・竹・薪炭・米穀・青物類などがあったという。

 やがて、物資の中でもとりわけ鮮度が重要な青物類の市場が発展していく。(続く)



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