東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(1)

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 5月11日から17日にかけて、神田祭が行われた。
 東京に何十年と住んでいて、これまで神田祭を見たことがなかった。
 正確にいえばある。車で都内を走っている際に、何度か神輿を見かけたことはあった。
 大抵は交通規制の中をすれ違う程度だったし、さらに言えば本格的に交通規制の掛かっているエリアは近づくこともできなかった。

 ちょっとしたきっかけがあって、神田祭を見物してみたいと思うようになった。
 そう思ったのは1年以上前のことだったが、残念ながら昨年は裏に当っていて、大祭を見物するためにはもう一年待たなければならなかった。

 改めて書くこともないが、神田祭は神田明神の祭礼だ。
 社伝によれば神田明神の創始は天平2年(730)、創建の地は大手町の将門塚のある周辺で、古社であることは間違いない。
 慶長年間、家康の江戸城拡張によって駿河台に移転。さらに武家地整備のために湯島の現在地に移転したのが元和2年(1616)とされる。

 江戸惣鎮守として神田・日本橋を山車で回る祭礼は、江戸時代から江戸っ子たちの人気を集めたと伝えられる。
 秋葉原が近いこともあって、近年は漫画・アニメ・アイドルファンが多数参拝するようになり、バブル崩壊以降の不景気も手伝って自営業だけでなく企業・ビジネスマンの神頼みが年々増加し、もちろん
商売の神様・神田明神の営業努力もあって、江戸時代の人気を復活させている。

 さて、神田祭に行ってみて改めて感じたのは氏子の熱気で、神田明神によれば108町会、神輿の数は大小200基ある。
 神田・日本橋地区は古くからの町名が比較的多く残っているが、昭和39年(1964)からの住居表示変更された外神田・東神田・内神田・東日本橋などでも、町会名には旧町名が生きていて、神田祭の神輿や半纏などで、失われた地名に出合うことができる。
hatagocho (2) (274x367) 下谷絵図_嘉永4_1851 (367x245)
中央に神田旅篭(籠)町一・二丁目。上の横の道が不忍通り、下が中央通り、中央の縦の道が神田明神通りに相当する。嘉永2年(1851)

 例えば、写真の旅籠町は現在の外神田1丁目と3丁目の一部で、秋葉原電気街の中心地域にあたる。旅籠町町会の神酒所もベルサール秋葉原のある住友不動産秋葉原ビルに置かれていた。
 旅籠町は江戸時代からの地名で、『御府内備考』には、板橋、川口両宿の街道筋で旅籠屋が多く有ったことから旅籠町と呼ぶようになったと書かれている。
 もともとは始め昌平橋の河岸通りにあり、天和2年(1682)の大火で北に移った。

 そうした古くからの町名の神輿の中に、人が乗ったひときわ大きな神輿があった。
 どこの神輿だろうと近寄って見ると、「神田市場」と書かれていた。(続く)


東京地名考─消えた地名・護持院ヶ原(下)

護持院ヶ原(江戸名所図会) (367x295)
江戸名所図会・護持院原
分間江戸図1697 (367x270)
神田橋御門外の知足院(護持院)
享保御江戸図1725 (367x275)
享保回禄後の明地(護持院ヶ原)
1806分間江戸大絵図 (367x275)
一番原が屋敷地になった護持院ヶ原(二~四番原)。文化3年(1806)

 前二回にわたって、筑波山神社は豊島岡墓地と縁がある、という話の顛末を書いた。
 しかし、どこが東京地名考なのか?

 さて、ここからが本当の本題。
 江戸知足院は、江戸白銀町、湯島切通と2度の移転を経て、元禄元年(1688)、神田橋御門外に寺領1500石を拝領して、大伽藍を建設した。

 この時、江戸知足院は筑波山護持院元禄寺に名を改めるが、享保2年(1717)、類焼によって全焼。大塚護国寺に間借りすることになるのだが、この僅か30年足らずの間に名を残した。
 護持院のあった焼け痕は火除地となり、その後150年、幕末まで護持院ヶ原と呼ばれることになった。

 護持院ヶ原は、名所として『江戸名所図会』にも紹介されている。

護持院旧地 神田橋と一ツ橋との間、御堀の外の芝生をいう。この所は大塚護持院の旧址なり。〔元禄年間、柳原の南にありし知足院を、引きて護持院となづけられ、殿堂御建立ありしが享保回禄(火事)の後、大塚の地へ移され、後明地(空地)となる〕林泉(庭園)の形残りて、すこぶる佳景なり。夏秋の間はこれを開かせられ、都下の人ここに遊ぶことを許さる。冬春の間は、時として大将軍家ここに御遊猟あり。故にこの所を新駒が原とも唱うるとなり。世俗は護持院の原と呼べり。(一部現代表記に改めた)

 柳原は神田川南岸の土手で、「柳原の南にありし知足院」は江戸白銀町にあった知足院のことを言っていると思われる。

 挿絵を見ると、手前から四番原、三番原、二番原となっていて、二番原は説明にある林泉(庭園)のように見える。
 夏と秋には江戸市民に開放され、冬と春は将軍が馬に乗って鷹狩をしたという。
 挿絵の右に描かれているのは濠で、現在の日本橋川になる。
 
 火除地は一番から四番まであったが、二から四番は現在の神田錦町2~3丁目の神田警察通り以南、一ツ橋2丁目の共立女子大学以南。一番は神田錦町1丁目の神田橋に近い一角だったが、延享(1744~1688)の頃には屋敷地となっていたようで、その後、護持院ヶ原と呼ばれたのは二から四番だった。

 なお、享保回禄以前、実際に護持院があったのは古地図からは神田錦町2~3丁目の神田警察通り以南、千代田通り以東になる。
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「ごじいんがはら」の石碑

 護持院ヶ原のエピソードに「護持院ヶ原の敵討」というのがあって、森鴎外が小説に書いている。
 残されていれば日比谷公園のようになったかもしれないが、明治政府は護持院ヶ原を学校用地にしてしまった。
 城跡でしかない皇居に今更火除地も必要なかったのだろうが、現在のビルだらけの街並みからは少々寂しい。
 護持院ヶ原の記憶を留めるのは、ビルの谷間にある錦三会児童遊園の石碑だけになっている。
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護持院ヶ原があったあたり

 東京地名考というわりには、護持院ヶ原に関しては事実のみで考察するようなことはない。
 まあ、東京地名考に相応しいことを述べるとすれば、こうして消えていった地名も多く、開発による経済効果や効率化ばかり求める思想からは、先人の記憶や歴史の教訓は忘れ去られてしまうということだろう。

東京地名考─消えた地名・護持院ヶ原(中)


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大塚にある豊島岡墓地
知足院_武州豊島郡江戸庄図1632 (367x275)
江戸白銀町の知足院(右下)。左に架かるのが日本橋
ゑ入江戸大絵図1684 (367x277)
湯島切通の知足院(中央)。道を挟んで湯島天神、左下が不忍池
元禄江戸大繪圖(宝永) (367x275)
神田橋御門外の護持院(中央)。左下に神田橋、上に一ツ橋
1833文政改正御江戸大絵図 (367x276)
大塚の護持院(右)。左隣が護国寺

 茨城県の筑波山神社は文京区にある皇族用墓地、豊島岡墓地と縁がある、という話の続き。

 筑波山中腹にある筑波山神社拝殿の土地には、明治維新まで江戸の鬼門を守護する知足院中禅寺があった。

 慶長15年(1610)、幕府の命で江戸白銀町(現在の千代田区岩本町付近)に知足院の護摩堂が創建され、江戸城護持の祈禱を命じられた。

 天和2年(1682)、江戸白銀町の知足院は火災に遭い、貞享元年(1684)、湯島切通(現在の文京区湯島4丁目6番付近)に移転。
 この土地も、江戸城の北東、鬼門に位置しているのは変わらない。
 さらに元禄元年(1688)、神田橋御門外に寺領1500石を拝領して移転、大伽藍が建てられることになる。
 知足院に対する徳川綱吉と生母・桂昌院の信仰は篤く、手厚い庇護を受けたという。
 ちなみに神田橋御門外も江戸城の北東、鬼門に位置している。

 さて、ここからが本題で、この元禄元年の移転の際、江戸知足院は筑波山護持院元禄寺に名を改める。
 護持院はもちろん、江戸城を護持するための祈禱寺ということからだが、享保2年(1717)、類焼によって全焼してしまい、時の住持は職を辞してしまう。
 大伽藍を失ったという責任を感じたのか、はたまた江戸城を護持するための護持院が自ら丸焼けになったのでは洒落にならないと思ったのか。
 責任を取らされたのだともいう。

 時の将軍・徳川吉宗は、護持院をこのまま廃するわけにはいかず、大塚にある将軍家ゆかりの寺で、護持院と同じ大和長谷寺末である護国寺に、護持院を引き継がせることにする。
 護国寺は神君・徳川家康ゆかりの護持院に本坊を譲り渡し、自らは観音堂に移ることになる。

 こうして、護国寺の同じ寺領内に護持院が隣り合うことになるが、幕府の手厚い庇護を受けていたのが禍したのか、明治維新を迎えると新政府は護持院を廃し、明治天皇第一皇子が死産したのをきっかけに、護持院の領地を召上げて墓所にしてしまった。
 この墓所は豊島ヶ岡御陵と呼ばれ、皇族専用の墓地として現在の豊島岡墓地に繋がっている。

 一方、筑波山にあった知足院中禅寺は、江戸知足院が筑波山護持院に改名した際に同じく院号を護持院に改め、明治維新に連座して廃仏毀釈されてしまった。
 明治政府は天皇を中心とする国家神道の再構築を行い、廃寺された中禅寺の跡地に筑波山神社が入ったという次第。 
 これが筑波山神社は豊島岡墓地と縁がある、という話の顛末だ。(続く)



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