東京地名考─ヨシが生えていた吉原はどこにあったか?(下)

正保江戸圖(東) (2) (367x275)
正保元年頃。下(東)が隅田川、鼠色が湿地。
間に描かれているのが浅草寺、右の直線が日本堤
江戸方角安見図鑑乾26 (2) (367x275)
延宝7年。右(東)の四角い一角が新吉原。上の直線が日本堤。
廓の周りに田圃が広がっている
長禄江戸図 (2) (367x275)
長禄江戸図。中央が千束池、上にあるのが不忍池。
下(東)が隅田川で千束池との間に浅草寺が描かれている
大門通 (367x291)
 『江戸名所図会』大門通の賑わい
日本橋北神田浜町絵図 (2) (367x275)
江戸後期の元吉原付近。右(東)・浜町川、左・東堀留川。
浜町川から下に伸びるのが竈河岸
元吉原IMG_0453 (367x275)
元吉原にあった浪花町の暖簾の下がる店

 日本橋から吉原が移転した千束は当時、田地だった。
 移転した明暦3年(1657)より前の正保元年(1644)頃の江戸図を見ると、浅草寺の北に大きな湿地が広がっているのがわかる。
 この湿地で稲作が行われていて、延宝7年(1679)の地図からは、新吉原が田圃の真中にあることがわかる。

 新吉原の北に日本堤という町名があるが、江戸初期に隅田川の氾濫を防ぐために築かれた堤防の名が由来で、隅田川岸の待乳山から三ノ輪にかけてあった。
 現在土手通りと称される道が日本堤の跡で、関東大震災後に崩されている。
 日本堤の名称の由来については、待乳山から山谷にかけてもう1本土手があり、合わせて二本堤と呼ばれていたのが日本堤になったという説や全国の諸大名が築堤を命じられたからという説があるが、はっきりしない。
 
 ただ、いずれにしても新吉原の地は隅田川の氾濫原だった場所で、古地図を再現した長禄江戸図(1457~1460)には浅草の北に大きな沼、千束池が描かれている。
 千束の地名の由来については、稲1000束が収穫できる稲田を意味したというのが通説になっている。
 鎌倉時代にはすでに千束郷と呼ばれていて、江戸時代に入ると広く一帯を千束村と呼んだ。

 大田区に千束という地名があるが、この地にある大池が灌漑用の水源に利用されたことで1000束分の稲が免税となったことが地名の由来だとされている。
 この大池が現在の洗足池で、近くに日蓮宗の池上本門寺があることから日蓮がここで足を洗ったのが地名の由来だとする俗説も生まれたが、日蓮以前の平安末期に千束の名が登場している。

 大田区の例からも、由来はともかく千束が稲田に関連した地名であることは蓋然性が高く、葭も繁っていたであろう湿地の浅草千束もまた、新吉原に相応しい地だったといえる。
 新吉原も元吉原と同じように、廓内に京町、角町、江戸町、揚屋町、仲之町がつくられた。

 さて元吉原だが、寛永9年(1632)の寛永江戸図には、外堀で囲まれた元吉原が描かれていて、廓内に江戸町などが記されているのが見える。
 元吉原は遊郭のなくなった明暦3年以降も商業地として栄える。
 『江戸名所図会』には大門通りが描かれ、「今は銅物屋(かなものや)・馬具師多く住めり」と書かれ、燭台や器・具足などを商っている店の前を人々が行き交う賑やかな様子が描かれている。

 元吉原は、和泉町・高砂町・住吉町・浪花町となり、外堀に囲われていたが、南の竈(へっつい)河岸と東の浜町川を残して早い段階に埋め立てられた。
 竈河岸の埋め立ては明治初期、浜町川は戦後に埋め立てられている。
 竈はかまどのことで、竈河岸は竈屋が多くあったことからの俗称という。

 各町名は明治以降も残っていたが、昭和初期に新和泉町・高砂町・住吉町、昭和55年(1980)に浪花町が消えている。
 現在は、人形町2・3丁目、日本橋富沢町のそれぞれ一部となっていて、人形町2丁目に飲食店が多く並んでいるほかは、事業所などのビルが多くなっている。
 もっとも終戦後、母が日本橋に住んでいたことがあって、この界隈を派手な服装の女性が多く歩いていて嫌な感じがしたというから、近年までは花街の名残りがあったのかもしれない。

 浪花町が消えて、吉原はおろか元吉原の名残りを留める町名もなくなった。
 この地がかつて葭原だったことなど思いもしない。
洗足池IMG_9197 (367x275)
大田区の洗足池

東京地名考─ヨシが生えていた吉原はどこにあったか?(中)

1632武州江戸庄図(寛永9) (3) (275x367)
寛永9年(1632)地図。京橋の右下(東)に"ぐそく丁"がある
1632武州江戸庄図(寛永9) (2) (275x367)
左上は日本橋。右下(東)の掘割に囲まれているのが元吉原
元吉原IMG_0461 (367x275)
元吉原の名残りを留める大門通り
親父橋IMG_8658 (367x275)
かつての親父橋付近

 江戸後期に書かれた『墨水消夏録』は、吉原の始まりについて以下のように記している。

 慶長の始めというから、徳川家康が北条氏を討伐し、江戸に入って間もない頃、北条家の浪人だった庄司甚右衛門が、駿河の宿屋の主25人と相談して、これからは江戸が繁昌するだろうと女たちを引き連れて江戸に下り、大井に開いた遊女宿に始まるという。
 なぜ江戸ではなく品川宿の入口の大井だったかというと、さすがに御城下に遊女宿を開けば御咎めがあるかもしれないと怖れたのだという。

 店の長暖簾に鈴を付けて、それが鳴るのを合図に女たちが客を迎えに出たといい、入口付近に神社の杜があったことから、この地が鈴が森と呼ばれるようになったというが、一般には、この磐井神社に伝わる鈴のような音のする鈴石が地名の由来だと伝えられている。

 家康が品川に鷹狩で訪れた際、庄司甚右衛門以下25名が遊女に茶を運ばせ、御城下での営業を願い出、京橋具足町の東にある汐入を拝領して埋め立てた。京橋具足町は現在の京橋3丁目になる。
 町は丸く地取りされ、北を柳町、南を角町、中の通りを中の町と名付けた。
 さらに十字に南北の道をつけ、町の形が十字に組んだ柄に丸い輿(こし)が乗っているように見えたので、輿町と綽名されたという。

 揚屋・茶屋などが並んで繁昌するようになるが、江戸のあちこちに遊女屋ができるようになって風紀が宜しくなかったことから、元和3年(1617)、庄司甚右衛門は遊女屋を一ヶ所に集めることを幕府に願い出て、堺町の東の葭沼を拝領した。堺町は現在の日本橋人形町3丁目になる。
 これが吉原町の起こりとなった。

 吉原は桝目に京町・角町・江戸町・江戸町二丁目・揚屋町の5町からなり、入口に大門口、中通りを中の町を呼んだ。中の町は後に大門通りと呼ばれるようになり、今に名を残している。

 吉原の西に葭沼の汐入があったため、水を捌いて客が往来できるように橋を架けた。
 庄司甚右衛門が中心となったが、25名の中でも年長で親父と呼ばれていたことから、この橋を親父橋と呼んだといわれている。
 親父橋は、戦後まもなく東堀留川が埋め立てられるまで残っていた。今は橋の袂だったビルに銘板が掛かっている。

 明暦2年(1656)、幕府から浅草寺北への移転を命ぜられるが、たまたま年明け正月の明暦の大火で吉原が焼け出され、本所弥勒寺に仮移転した後、浅草寺裏の千束に本移転する。
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親父橋の案内板

東京地名考─ヨシが生えていた吉原はどこにあったか?(上)

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 日本から遊郭、赤線が消えて半世紀以上が経つが、どういうわけか、遊郭、赤線への郷愁は絶えない。
 遊郭、遊女の歴史については詳しくないし、それに詳しい方や、書店やネットには詳細を極めた解説や評論も多いので、敢えて触れることはしない。

 ただ、ネットを眺めているととりわけ年配の男性に遊郭、赤線への郷愁に魅かれる方も多いようで、しかも年代的に遊郭、赤線に足を運んだ経験者は少なかろうと思われるので、若い人たちの中に60~70年代の学生運動に魅かれる人がいるように、きっと経験ができなかったからこその憧れに違いない。

 面白いのは、女性にも少なからず遊郭に興味を持つ方がいて、苦界に身を置く境遇にシンパシーを感じるのか、はたまた花魁・太夫の艶やかさに魅かれるのか、男には女心までは量れない。
新吉原IMG_8475 (367x275)
京町一丁目の門が建つ、かつての新吉原付近
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新吉原の名を残す吉原大門交差点
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浄閑寺の新吉原総霊塔(供養塔)


 遊郭といえば代表格は、江戸で唯一幕府が公認した吉原だ。
 現在の町名でいえば台東区千束3・4丁目がこれに相当し、吉原大門をはじめ吉原神社などに名を留めている。
 町の様子はかつてに比べれば大きく変貌したが、今でも都内有数のソープ街に面影を残している。
 付け加えれば、吉原の北、南千住2丁目に遊女たちの投込み寺として知られる浄閑寺があって、吉原関連の史跡として名高い。

 吉原という名の由来は、葭(よし)が一面に繁っている葭の原に由来すると考えられている。
 葭は本来はアシと読み、葦・蘆・芦とも書く。イネ科の多年草で水辺に生えるので、河原や湿地でよく見かける。

 本来はアシと読むと書いたが、アシが「悪し」に通じることから、忌み嫌ってヨシ(良し)と読ませるようになったといわれる。
 吉原の吉は、このヨシに充てたもので、アシ原→ヨシ(葭)原→吉原となったものだ。

 さて、遊郭・吉原の歴史を知っている方ならご存じのことだが、一般に吉原と言われている台東区千束は、昔は新吉原と呼ばれていて、もともとの吉原ではない。
 もともとの吉原は、新吉原ができてからは元吉原と呼ばれるようになるが、日本橋の海際にあった。
 吉原が新吉原に移ったのは明暦3年(1657)のことで、徳川家康の開府以来、江戸の町は拡大を続け、都市計画上も風紀上も、遊女屋が市街地となった日本橋にあることを好ましくないと考えた幕府が、浅草寺の北への移転を命じた。

 つまり、吉原の地名の由来となった葭原は、浅草寺の北ではなく、日本橋、現在の人形町付近にあったというわけだ。


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