東京地名考─さまよえるオランダ人、八重洲(下)

                                                               

武州豊嶋郡江戸庄図。濠端に町家が書かれている

沖積層基底等深線図(東京都)。色の部分は日比谷入江

地理院地図。東京駅の東側が、現在の八重洲

明治22年の東京駅付近。外濠に八重洲橋が架かっている

大正12年。東京駅ができ、橋が撤去されている

昭和5年。八重洲橋が復活している
千代田区詳細図s22 (367x275)
昭和22年。外濠埋立前、改札に八重洲口の表記がある
東京駅八重洲中央IMG_6690 (367x275)
八重洲橋のあった東京駅八重洲中央口

 和田倉門から日比谷門(日比谷交差点)まで、現在の日比谷通りに面して、江戸時代初期、ヤン・ヨーステン屋敷があったことから、この濠端はヤヨウス河岸と呼ばれたといわれる。
 江戸砂子によれば、ヤヨウス河岸は和田倉門から馬場先門までで、しかも町屋が存在したという。寛永9(1632)頃に刊行された武州豊嶋郡江戸庄図を見ると、確かに濠に沿って町屋が確認できる。

 家康による江戸城の拡張が始まる慶長までは、皇居前には日比谷入江が入り込んでいた。
 家康は神田山を削り、その土で濠を残してこの入江を埋め立てたが、寛永期まで続く江戸城の普請中、この濠端、ヤヨウス河岸が土木・建築資材や生活物資を荷揚げする河岸として機能していたことは想像に難くない。
 大名屋敷地として造成された曲輪内に、そうした作業者のための町屋が形成されていたのも頷ける。

 普請が終わり、、町屋が取り除かれたその後も、河岸名は残り、明治維新に至った。嘉永2年(1849)刊の切絵図にも、八代洲河岸の名が記されているのは、前回示した。

 ところで、ここまで読んできて、疑問を持たれた方も多いに違いない。
 というのは、現在、八重洲と呼ばれているのは皇居の内濠からは遠く離れた東京駅の反対側だからだ。おまけに、かつて八重洲河岸があった千代田区ではなく、中央区にある。

 中央区に八重洲の町名が誕生したのは昭和29年(1954)のことで、千代田区から八重洲町が消滅してから25年後のことになる。
 中央区ホームページには、「(千代田区に八重洲町が誕生してから)その後、昭和29年に八重洲となったものです」としか書かれてなくて、理由はわからない。
東京地名考─有楽町と織田有楽斎、数寄屋橋と数寄屋坊主(中)」に書いたように、有楽町の地名の由来となった織​田​有​楽斎の屋敷があったのは中央区銀座だが、明治以来、有楽町は千代田区にある。
 千代田区に有楽町があるんだから、代わりに中央区に八重洲があってもいいというわけでもないだろうが・・・

 ここからは推測だが、八重洲の町名はおそらくは東京駅の歴史と絡んでいる。
 東京で最初の鉄道駅は、誰もが知ってる新橋駅で、明治5年(1872)の開業。
 今は東京の表玄関として、新幹線を始め、さまざまな路線の始発駅であり、日本の鉄道網の基点となっている東京駅だが、開業は大正3年(1914)と比較的新しい。

 当初、改札口は皇居に面した西側にしかなく、東側に八重洲口が出来るのは昭和4年(1929)になってから。
 東京駅の東側には外濠があり、八重洲口(現在の八重洲中央口)を出たところに八重洲橋が架かっていた。

 ここに橋が架かったのは明治17年(1884)のことで、東京駅はまだなく、麹町區八重洲町にほぼ面していたことが、八重洲橋の名の由来と思われる。
 大正3年(1914)に東京駅ができると、駅舎の出入り口は西側(現在の丸の内中央口)のみで、外濠側は駅裏となり、皇居側への通行ができなくなった。そのため、八重洲橋は撤去された。
 八重洲橋が再び架橋されたのは大正14年(1925)のこと。
 昭和4年(1929)にできた東側出入り口が八重洲口となったのは、この八重洲橋があったためと思われる。

 時代は下って、戦後の昭和23年代(1948)、戦災の瓦礫処理のために東京駅東側の外濠が埋め立てられ、八重洲橋は姿を消す。

 話は戻るが、昭和4年(1929)は千代田区から八重洲町が消滅し、東京駅に八重洲口が出来た年で、八重洲の名は八重洲橋と八重洲口だけに残った。
 昭和23年(1948)代には八重洲橋も消えて、八重洲口だけに八重洲の名を留めることになる。
 こうして、戦争を挟んで20年以上、八重洲河岸と八重洲町は忘れられた存在となった。

 そうした中で、八重洲口に面した中央区に、昭和29年(1954)、八重洲の町名が誕生したのも宣なるかなだが、詳しい経緯はわからない。
 あるいは中央区役所のどこかに、当時の経緯を記す資料が眠っているのだろうか。 

『さまよえるオランダ人』はワーグナーのオペラで、永遠にさまよい続けるオランダ人船長の幽霊船の伝承を基にしたもの。
 日本に漂着し、インドシナの海で遭難したオランダ人船員、ヤン・ヨーステンもまた、死して300年後、その名を東京の地にさまよわせたというわけだ。 

東京地名考─さまよえるオランダ人、八重洲(上)

馬場先門→和田倉門IMG_1529 (367x275)
馬場先門から和田倉門へ、かつての八重洲河岸。手前は内濠

 だいぶ前に・・・と思って調べてみたら、3年半前の2013年1月28日だった。「東京地名考─有楽町と織田有楽斎、数寄屋橋と数寄屋坊主(下)」に次のように書いた。
 ──ヤン=ヨーステンが地名の起こりとされる八重洲もあって、それはいずれまた。

 結局、かかないままに時が過ぎ、1年半前に「東京地名考─桜田門にはたして桜は咲いていたのか?(上)」を書いた時に、それを思い出して、「今回は桜田。八重洲はまたいつか・・・って、また2年後か?」と自嘲した。
 2年経ってないが、話題も夏枯れしているので、書くことにする。

 八重洲の地名の起こりがヤン・ヨーステンに由来することは、わりとよく知られている。
 ちなみに、「八重洲 地名の由来」でgoogle検索すると、52,600件が引っかかる。
 そのすべてが、地名の由来を説明しているわけではないだろうが、いくつかの資料を基に書かれたものがネットには溢れている。

 同じことをわざわざ書く必要もないので、ここでは、地名の由来は、世界大百科事典からの引用で省略する。
 ──徳川家康に召しかかえられたオランダ人通訳ヤン・ヨーステンの屋敷があったため,その名に近い発音で八代洲河岸,または八重洲河岸と呼ばれるようになったという。
東京區分地図八重洲町m43 (367x275)
明治43年の八重洲町。左・内堀、右・外濠、東京駅はまだない

 ヤン・ヨーステンについては、朝日日本歴史人物事典を要約しておく。
 ──オランダの貿易家。オランダ船リーフデ号で,ウィリアム・アダムス(三浦按針)らと慶長5(1600)年豊後に漂着。徳川家康の信任を得、慶長17年から10年間,コーチシナ,パタニ,トンキンなどインドシナ半島に朱印船を派遣,南海貿易に当たる。平戸のオランダ商館と幕府の仲介役ともなった。江戸に住み日本人女性との間に娘をもうけた。元和9(1623)年バタビアから日本へ帰航の途中,インドシナで難破し死去した。

 さて、八重洲の地名の由来はヤン・ヨーステンの屋敷があったからというのは、世界大百科事典にもあるように伝承でしかない。
 この基となっているのが、明治初期の東京府志料で、八重洲町について、「町名の起源は慶長の頃ヤンヤウスと云う阿蘭陀人に此地にて邸を賜わりしよりの名なり。故に和田倉門外より日比谷に至るまでの濠端を里俗八重洲河岸と唱え来りしを、明治五年直ちに以て名とす」と説明している。
 八重洲町は明治5年~昭和4年(1872~1929)まで存在した。
     
耶楊子河岸7-150
御府内備考
八代曾河岸1-14
江戸砂子

 東京府志料の根拠となっているものの一つが、江戸後期の御府内備考で、耶楊子河岸の項に次のように書かれている。
 ──彌余子、八代洲、八代曾、八重洲とも書かせり。皆、仮借の文字なり。紫一本に云う、昔ヤヨウスと云う。異國人に此所にて屋敷を賜りしよりの名なりと。案ずるに慶長日記に十九年甲寅九月朔日、阿蘭陀人、耶楊子、需子(しゅす)二匹を献ずるよし云へたり。駿府政争録同じ、此人なるべし。

 更に遡ると、江戸中期の江戸砂子は、これを八代曾河岸(やよそかし)という項で、次のように書いている。
 ──和田倉より馬場先の御堀端を云う。昔は此所に町屋ありし也。慶長の頃、ヤンヨウス、ハチクハンなど云ふ異國人来たりしに、此辺にてヤンヨウスに町屋敷を下されしよりの名といふ。ハチクワンは八官町にて屋敷を下されけりと也。又冶容子(ヤヨウス)河岸とも云うよし八代洲河岸とも書く。

 引用が多くなったので、整理してみる。
 慶長の頃、ヤン・ヨーステンの屋敷があった場所をヤヨウス河岸(または、ヤヨソ河岸)と呼ぶようになり、八代洲・冶容子・八代曾・八重洲などの字が充てられた。
 明治になって町制が敷かれることになり、八重洲が採用されて、ヤヨウス河岸を含む一帯が八重洲町となった。
萬延江戸図大名小路(万延1_1860) (367x275)
江戸末期。和田倉・馬場先御門間の濠端に「八代スガシ」の文字

 八重洲町(1~2丁目)は、現在の丸の内2丁目のほとんど、東京駅南口から日比谷通りにかけてに相当するが、江戸時代、この辺りは御曲輪内大名小路と呼ばれ、大名屋敷地だった。
 ヤン・ヨーステンはここに屋敷を与えられたが、おそらくは内濠に面した、和田倉門から日比谷門(日比谷交差点)までの間だったと考えられる。

東京地名考─川から生まれた溜池と汐留(下)

虎ノ門
江戸名勝図会・虎の門(広重)。手前に金毘羅宮。
汐留川の奥に溜池の堰から落ちる滝が描かれている

 汐留といえば、誰でも新橋駅の東側、浜離宮の北側を思い浮かべる。
 地形的にも海に近く、汐留の名にふさわしい。汐留川の河口にあり、実際浜離宮には汐留川の水門があり、高潮などで潮位が高くなったときに、川が氾濫するのを防ぐようになっている。
 つまり「潮止め」である。水門のすぐ隣には排水ポンプを備えた排水機場もある。

 前回の汐留川の歴史に戻る。
 汐留川の前身、桜川は、江戸期以前は虎ノ門付近で日比谷入江に流れ込んでいた。つまり、虎ノ門付近に河口があった。
 その後、入江が埋め立てられ、運河を掘削して浜離宮で海に流れ込むようになった。

 日比谷入江が埋め立てられて溜池が作られた際、溜池から汐留川への流れ口に堰が作られた。この堰は川の水をせき止めるダムの役割を果たすが、同時に潮の干満によって海水が上水用の溜池に逆流しないための水門、潮止めともなった。
 つまり、最初の汐留は虎ノ門に造られた堰だったわけである。

 その後、溜池から流れる川が汐留川と呼ばれるようになったのは、この虎ノ門の汐留の堰に由来する。

 皇居、江戸城の濠はダムになっていて、一見、水位は同じかと思うが、各濠ごとに違っている。もっとも水面が高いのは海から遠い半蔵濠、千鳥ヶ淵で約15メートルの高さにある。
 隣の牛ヶ窪、桜田濠が3メートル、海に近い馬場先濠や日比谷濠は0メートルである。

 汐留川の外濠や城門は消失しているが、同じようなダム構造になっていたのではないかと思われる。
 江戸城の外濠の整備が進んで、やがて汐留は東に移り、海水が外濠に及ばないようにするための堰が土橋に造られる。
武州豊嶋郡江戸庄図(1632寛永9頃) (367x275)
武州豊嶋郡江戸庄図
新板江戸大絵図(1670寛文10) (367x275)
新板江戸大絵図
大東京最新明細地圖(汐留町1932昭和7) (367x275)
汐留町。昭和7年の地図

 寛永9年(1632)頃のものとされる武州豊嶋郡江戸庄図では、現在の汐留はまだ埋め立て中の干潟で、龍野藩脇坂家下屋敷が記されている。
 寛文10 年(1670)年の新板江戸大絵図には、しほどめ丁・しほどめ橋があって、この頃にはすでに地名が誕生していたことがわかる。
 江戸砂子には汐留橋、御府内備考には潮止橋の項目がある。

 明治になって汐留町が誕生し、明治5年にこの地に新橋駅が開業する。
 明治42年に現在の新橋駅に烏森駅が開業。大正3年、延伸して東京駅が開業するとともに烏森駅が旅客用の新橋駅となり、旧新橋駅は貨物用の汐留駅となる。
 この汐留駅は国鉄民営化に伴い昭和61年に廃止。跡地は再開発されて汐留シオサイトとなった。

 シオサイトの一角に都営地下鉄とゆりかもめの汐留駅がある。
 汐留町は、芝汐留を経て現在は東新橋となり、汐留の地名は消滅したが、駅名や交差点に名を残している。

 汐留はその名の通り、昔は海の埋立地。古い埋立地なので地盤は強固になっているとされるが、東日本大震災では、浜離宮の水門近くで小さな液状化があった。
 高潮対策としては昭和34年の伊勢湾台風を基準にし、洪水対策としては時間当たり100ミリの降雨を想定している。
 しかし、想定外は起こりうるわけで、シオサイトには地下街もあり、水門や排水ポンプ頼みだということは留意する必要がある。


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