東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(7)

          
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大田市場の提灯、大田市場の卸商の短冊が下がった御神楽
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神田市場の太鼓を引く大田市場関係者
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宮入りする江戸神社の千貫神輿と江戸神社奉賛会の人たち

 神田祭で江戸神社の祭礼を行っているのは、江戸神社奉賛会の人々だ。
 江戸神社奉賛会とは? というと、旧神田市場関係者なのだ。

 半纏に「大田市場」のシールを張っている人もいるし、千貫神輿を先導する御囃子の車には堂々と「大田市場」の提灯が下がり、大田市場の卸商の名入りの短冊が下がった笹竹が掲げられている。

 神田青果市場の廃止により、市場関係者は新設の大田市場に移転した。
 江戸神社奉賛会の旧神田市場関係者とは、早い話が大田市場で営業している元神田市場の人たちだった。
 つまり、神田祭で神田市場の神輿を担いでいるのは、大田市場の人たちだった。

 神田青果市場廃止から28年。多町、秋葉原、大田と2度の市場移転を経験した神田っ子、やっちゃ場の心意気は健在だったというわけだ。
 ちなみに「やっちゃ場」は青物市場のことで、競りの掛け声が「やっちゃ」と聞えることから生れた言葉で、江戸時代から使われている。

 さて、話を明治時代に戻そう。
 第4回に書いたように、明治政府は多町の市場を何度か神田川の北に移そうとした。
 最初の移転話は明治5年(1872)に始まっている。
 やっちゃ場が帝都の中心部にあっては美観を損ねるというのが理由だったと『神田市場史』には書かれている。
 しかし、市場関係者が拒み続け、関東大震災で焼け野原となってようやく移転が実現した。

 それでも震災直後、市場関係者はバラックで営業を再開している。
 東京市は直ちに市場の復旧・開場を禁止して、秋葉原に中央卸売市場の建設を始めた。
 震災の5年後、昭和3年(1928)12月に神田分場が完成し、東京市市設神田青果市場が開設される。
 さらに、昭和10年(1935)2月の東京市中央卸売市場神田分場発足まで、6年余が掛かっている。

 ことほど市場の移転は簡単ではないということだ。
 誰もが慣れた場所から好んで移りたくはない。
 秋葉原から大田への移転も、昭和36年(1961)に始まっていて、平成元年(1989)の完成・移転まで27年余りを要している。
     
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1985年頃の大田市場予定地。左上隅の三角が野鳥公園
出典:国土地理院
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完成後の大田市場と拡大した野鳥公園(2009年)
出典:国土地理院

 大田への移転でも神田市場関係者は難色を示していて、最後まで移転に反対する業者が訴訟を起こしたりしている。
 移転が完了するのは平成10年(1998)10月のことだ。

 神田市場関係者が編纂した『神田市場史』には、大意、次のように書かれている。

 昭和58年(1983)の委員会で、築地市場の扱いについて理事者側は、築地の水産物部の全面移転は困難で、この問題の解決を待つと大田市場の完成が遅れ、合意した神田市場の移転にも影響が出るので、築地の移転問題は棚上げする、と答えた。
 築地の水産部への対応に比べて、神田はひどく舐められたものだ。神田の業者は東京都の方針に対して誠に従順だったと察せられる。

 いわば旧神田市場関係者の東京都に対する恨み節が語られている。
 当初計画では、築地市場も大田に移転するはずだった。
 ところが、築地の水産業者はこれに激しく抵抗し、結局、東京都が折れた。

 思えば築地移転問題の迷走はこの時から始まったのであり、築地再整備計画、断念、そして築地に近い豊洲移転へと進んでいった。

 あの時、築地の水産業者が大田市場移転を決めていれば、こんなことにはならなかった、と言っても後の祭だ。
 『神田市場史』で恨み節を語った旧神田市場の青果業者も、先の見えない築地移転問題の混迷を見て、実のところ胸を撫で下ろしているのではないか。
 そうでなければ、神田祭であんなに楽しそうに千貫神輿を担げるわけがない。
 
 大田に移転しても、神田市場の心意気は健在で、2年に一度、江戸神社の祭に神田に戻ってくる。
 一方、築地市場が移転するはずだった土地は、今は広大な東京港野鳥公園として、埋立地に飛来する野鳥たちの棲み処となっている。

東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(6)

      
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獅子頭神輿2基と、背中に「市場」の文字の半纏
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千貫神輿。左の赤い襷の半纏の背に「江戸神社」

 神田市場について長々と書いてきたが、いよいよ本題だ。
 神田市場が秋葉原から消えたのは28年前のこと。
 しかし、神田祭には今も神田市場と書かれた神輿が担がれている。

 神輿を担いでいる人たちは、背中に「市場」と書かれた半纏を着ていた。
 神田市場の神輿には2種類3基あって、女性が担ぐ獅子頭神輿と男性が担ぐ千貫神輿がある。
 女性は緑地、男性は白地の半纏で、他に介添えの人たちは藍文字で「市場」と細かく模様された半纏を着ている。
 これとは別に「江戸神社」と書かれた半纏を着ている人もいる。

 江戸神社は神田明神境内にある神社で、神田明神によれば、大宝2年(702)の創建で、天平2年(730)創建の神田神社よりも古いことになっている。
 江戸神社の創建の地は江戸城内で、江戸最古の地主神とされている。
 江戸城の拡張で江戸城外の将門塚付近にあった神田明神が慶長8年(1603)に神田駿河台に遷座した際に、江戸神社も同じ場所に遷り、元和2年(1616)、神田明神とともに湯島の現在地に再び遷座した。

 現在は神田明神が管理する摂社となっているが、本来は同じ場所にあるだけで神田明神からは独立していたようだ。
 江戸の豪族だった江戸重長や、江戸氏の後を襲った太田道灌らに信仰され、江戸時代には南伝馬町を中心に信仰を集めたという。
 祭神は建速須佐之男命で、『寺社書上』には牛頭天王社と呼ばれ、神田一帯が氏子だった。
 神田明神によれば慶長10年(1605)に初の神輿渡御があり、以後天王祭が行われた。

 明治になると神社名を須賀神社に改めるが、明治18年(1885)の社殿焼失時に須賀神社を神田明神に仮遷座し、名称を江戸神社に再び改める。
 『神田市場史』によれば、多町の市場が秋葉原に移転した際、市場の鬼門(北東)に江戸神社を勧請したとある。これが分祀なのか遷座なのかはっきりしないが、おそらく神田明神からの遷座だったのだろう。

 市場と江戸神社の関係について、『神田市場史』には明治7年(1874)、多町市場内で江戸神社の自前の祭りをやったと書かれている。

 これには多少の説明が必要で、明治維新に伴い、朝廷の逆賊であった平将門が神田明神の祭神から外され、常陸国大洗磯前神社から少彦名の分霊が迎えらえた。
 それまでは一ノ宮が大己貴、二ノ宮が平将門だった。
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千貫神輿には、神田明神ではなく「江戸神社」の神額

 これに反発したのが、神田っ子、とりわけ多町の市場関係者で、江戸本来の地主神である須賀神社(牛頭天王社)の祭を多町の市場内で行った。
 須賀神社は江戸神社に名称を変えるが、多町を中心とする市場関係者が氏子となり、その結びつきを強めていったようで、大正11年(1922)には江戸神社の大祭が行われ、秋葉原移転によって市場内に神社を勧請するまでになった。

 それから後、神田青果市場内に江戸神社があったが、平成元年(1989)5月の市場廃止によって再び神田明神に仮遷座し、同年12月、神輿庫を社殿に改修して江戸神社とした。
 江戸神社は現在も神田明神境内にあって、千貫神輿と獅子頭神輿が鎮座している。

 『神田市場史』には、江戸神社と神田明神の祭礼が同一場所で同日に行われるので混同されやすいが、神田市場の祭礼は神田明神ではなく江戸神社の祭礼として行われていると書かれている。
 そして神田市場なき今、神田明神内に鎮座する江戸神社の祭礼は、江戸神社奉賛会の人々によって行われている。(続く)

東京地名考─神田祭で神田市場の神輿は誰が担ぐのか?(5)

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神田青果市場の跡地に建つ秋葉原UDX

 東京市中央卸売市場神田分場は、昭和37年(1962)の神田市場への名称変更を経て、平成元年まで秋葉原駅電気街口北側にあった。
 その跡地に建ったのが秋葉原UDXで、ここに神田青果市場があったことを覚えている人も多い。

 近くに電気街があったこともあって、子供のころから秋葉原を訪れるたびに市場を目にした。
 もっとも外周ばかりで中に入ることはなかったので記憶も朧気で、市場を出入りする人々やトラックくらいしか印象がない。

 当時の秋葉原駅は今とは違っていて、市場と貨物駅は山手線を挟んで東西を分離する障壁だった。
 私は日比谷線の秋葉原駅を利用することが多く、昭和通り出口から電気街や交通博物館に行くためには、貨物駅を迂回しなければならなかった。

 北側のガードは現存しているが、事業所の建物や倉庫、青果市場しかない道で、一般人にとっては至ってつまらなく、ほとんど利用することがなかった。

 南側はかつて神田川と貨物駅の船溜まりを結ぶ水路があったが、昭和30年代に入って埋め立てられている。
 水路に架かる橋はしばらく残ったままで、その橋を渡って貨物駅に沿った路地をクランクに曲がり、現在万世橋署のある通りのガードをくぐると、ラジオ会館や秋葉原デパートに行くことができた。
     
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戦後間もない秋葉原。貨物駅の西・神田山本町に市場がある
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昭和13年頃の神田青果市場


 この道筋は人の通りも多く、次第に電器店が立ち並ぶようになっていった。
 おそらくは、昭和37年(1962)の地下鉄日比谷線の北千住・人形町間の開通が契機だったのではないか。
 東武伊勢崎線の乗り入れも始まり、足立区から埼玉県越谷市にかけて新興住宅地が造成され、人口が急増していくことになる。

 秋葉原に行くのはたいがい休日で、従って市場は閉まっている。
 モータリゼーションとともに我が家にもマイカーが登場し、免許を取ったばかりの私はよく父を乗せて秋葉原に買い物に出かけた。
 買い物はもちろん電化製品で、休日で閑散とした青果市場の周りの道に駐車して、電気店に向かった。

 青果市場のぐるりはそうしたマイカーの路上駐車場となっていて、最初の頃は駅に近い場所に停められたのだが、自家用車の増大に比例して次第に北側へと離れていった。
 もちろん、当時は駐車違反ではなく、青果市場があった頃まで続いていたように思う。
 電化製品を配達してもらわずに持ち帰る。それも父から教わった値引きのテクニックだった。
 青果市場は、そうした思い出に結びついている。
 秋葉原の神田青果市場が廃止されたのは平成元年(1989)5月で、業者はこの年3月に完成した大田市場に移った。(続く)
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秋葉原UDXの前にある史蹟プレート
 




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