沖縄というパンドラの箱



 普天間基地移設問題は、ほぼ振り出しに戻った。これを半年間の迷走と批判する意見が大方だろうが、この半年間の迷走がなかったら、国民の多く、そして政治家やマスコミでさえ、沖縄米軍基地問題の本質に気づかないままだったのではなかろうか?

 40年近く前に返還直後の沖縄を巡り、基地の現実を目にし、そして沖縄の自然と人々の素晴らしさに触れた私自身の反省を込めて言えば、沖縄の米軍基地問題を解決のできないことだと納得し、それを思い出さないようにし、ネガティヴな基地の存在を無視することが、沖縄の観光や発展に繋がると思い込んできたかもしれない。

 そうして40年近くが経ったが、基地の存在は変わらず、基地と共存しなければならない本島の人たちの生活も変わらなかった。ただ私が、40年前に持った問題意識に対して鈍感になっただけだ。
 それからいえば、4/21「普天間問題と杉並ゴミ戦争」に書いた杉並区民と同罪なのだ。

 首相を辞めることになった鳩山さんの迷走は、日本の安全保障と沖縄米軍基地の役割についての知識不足から生じたことは自らも認めている。そのような人が首相として適任だったのかという意見は、その通りかもしれない。沖縄の人々に大きな怒りと失望を与え、普天間基地移設問題の解決をさらに困難にしてしまったという批判も、おそらく当たっているだろう。

 ただ私は、今回の問題を違った視点から見る。
 仮に鳩山さんが昨年秋の時点で辺野古への移転方針を継承したとして、果たして移転は出来たのだろうか? あるいは反対派を押さえつけることで基地建設は可能だったかもしれない。しかし、それでめでたしめでたし、なのだろうか?

 私はこの半年間、新聞やテレビなど、マスコミの論調を注視してきた。
 マスコミは鳩山さんの提案はどれも非現実的だとして、暗に辺野古案の早期の受け入れを求めていた。しかし、その考えの基にあったのはアメリカが容認しないからという現実論、日米関係の悪化を恐れる現実論であって、基地を受け入れなければならない辺野古や沖縄の人々に対する心遣いなど欠片もなかった。
 それが辺野古案に回帰した途端、基地を抱える沖縄の怒りをことさらに取り上げる。何という節操のなさだろう。批判さえしていれば、沖縄基地問題が解決するとでもいうのだろうか?

 「普天間問題と杉並ゴミ戦争」にも書いたが、普天間基地移設問題に正しい答えなどない。ベストな案もなければ、ベターな案もない。バッドなものしかない中で、よりマシな案を選択するしかないのである。
 沖縄基地問題に、めでたしめでたしのハッピーエンドはない。

 鳩山さんは、米軍基地と沖縄問題というパンドラの箱を開けてしまった。沖縄返還、海洋博開催によって様々な問題に封印をし、40年近く蓋を閉じたままにしてきたパンドラの箱・・・

 パンドラの箱は、ギリシア神話に出てくるあらゆる災いの詰まった箱のことである。本来は箱ではなく壺だとされるが、ゼウスが人類に災いをもたらすために地上に遣わした女パンドラに持たせた。
 開けてはいけないと言い含められていたにも係らず、好奇心の強いパンドラがこの箱を開けてしまうと、不和・争い・死・病・悲嘆などすべての災いが飛びだし、人類は不幸に見舞われることになった。
 食べてはいけないと言われた知恵の実を好奇心からイヴが食べてしまう創世記の話と良く似ている。
 
 鳩山さんがパンドラの箱を開けてしまったことは、もしかしたら良いことだったのかもしれない。
 沖縄で米兵の犯罪や米軍事故が起きるたびに本土にいる私たちは眉をひそめるが、しかしそれは一過性で、沖縄の基地問題を深く考えることなどしなかった。
 犯人を日本の警察に引き渡し、取り調べ、裁判にかける。対症療法で済ませることで良しとし、それ以上のことを考えなかった。

 若い人たちの多くは、なぜ沖縄に米軍基地があるのか、どのような役割を担ってきたのかを知らない。
 中台海峡危機、ベトナム戦争、沖縄返還、そして薩摩支配から戦前戦後に渡る沖縄の歴史。それを知らないで育ったマスコミの記者たちもまた、沖縄問題の本質を理解できていない。だから、表面を撫でただけの報道がなされる。

 日本の国の安全は、沖縄の犠牲の上に成り立っている。大阪府知事の橋下さんが言うとおりだ。
 誰もその苦痛を引き受けようとしないのは沖縄差別だ、と苦渋の顔で述べた沖縄県知事の仲井真さんの言うこともその通りだ。

 鳩山さんは、このパンドラの箱を開けてしまった。基地問題はますます混乱することになるだろうが、それによって箱に封じ込められていた沖縄のあらゆる問題が、過去の歴史に遡ってあらゆる沖縄の不幸が、再び国民・政治家・マスコミの前に曝け出されることは、もしかしたら良いことなのかもしれない。
 沖縄の不幸を直視し、この問題に取り組み、悪い中で少しでもマシになるように努力することが大切なのではないか。 
 批判のための批判、一過性の出来事に終わらせてしまってはならない。せっかく開いたパンドラの箱を再び閉じてしまってはならない。

 ギリシア神話では、パンドラの箱に最後に残ったものは、災厄の中で人類が生きていくための希望だったと言われる。

※写真は鳩山会館。磔刑の鳩のようにも見える。

貧乏旅行(43)─沖永良部島の漁師、そして旅の終わり

 「りゅうきゅうねしあ」の聖地・黒島で何日かを過ごして、私は石垣島に戻り、石垣空港から飛行機で那覇に飛んで、本部半島を巡った。1976年3月、沖縄海洋博が閉幕した直後だった。この時の宴の後の様子は、4/6「名護のガジュマルと海洋博」の回に書いた。
 そして、那覇から船に乗り、沖永良部島(おきのえらぶじま)に渡った。

 沖永良部島は沖縄ではないが、同じ南西諸島にある奄美諸島に属する島である。沖縄本島から北に向かって与論島があり、その次に沖永良部島がある。
 沖永良部島に行ったのは、1973年に公開された映画「青幻記」を観て、その風景の美しさに魅かれたからだった。監督の成島東一郎はカメラマンでもあったので、沖永良部島の青い海と白い砂浜を切り取ったその映像は、とても素晴らしかった。
 そんなわけで、特に何かを見に行ったわけでもなく、ただ沖永良部島の海が見たいというだけだった。多少は島を巡ったはずなのだが、あまり良く覚えていない。覚えているのは、和泊(わどまり)の民宿に泊まって、民宿の人と酒を飲んで話をしたことくらいだ。

 私はその民宿で、初めてサトウキビの焼酎というものを飲んだ。今では、東京でもサトウキビの焼酎は珍しいものではなくなったが、当時、サトウキビの焼酎があることすら知らなかった。私はあまり酒が飲めない方だったが、サトウキビの焼酎は飲みやすくて、民宿の人に勧められるままにだいぶ飲んでしまった。
 民宿の食堂には、近所の人も来ていて、居酒屋のような雰囲気だった。民宿も、どちらかというと食堂がメインで、民宿もやっているといった感じだった。看板は民宿ではなくて旅館だったかもしれない。
 食堂で酒を飲んでいた人たちはみんな気さくな人たちで、一人は漁師だったように思う。素潜りでは30メートルが限界で、それ以上潜ると潜水病になるとか、そんな海の話ばかりしていたように思う。
 今年の夏ごろ、素潜りの限界についてテレビで話をしているのを聞いて、俺は30年前にとっくに沖永良部の漁師に教えてもらったわい、と思った。
 台風が来ると、海や港がどれだけ荒れるとか、まあ、漁師も本土からの旅行者が珍しかったのか、いろいろと話してくれた。素潜りについてはもっとたくさん話してくれたように思うが、漁法の話だけに詳細を覚えていない。きっと、酒の肴に美味しいものも食べたはずなのだが、サトウキビの焼酎に酔っ払って忘れてしまった。民宿の自室に戻り、布団にひっくり返り、酒が頭の中をぐるぐる回ったけれど、何だかとても幸せだった・・・

 沖永良部島からは、再び船に乗って鹿児島に行き、鹿児島からは、今度は飛行機で直接羽田に戻った。行きたいところだけに行って、後は素通りする実に効率的な旅だった。効率的な旅ではあったが、途中がなかった・・・

 6/21「パイン畑、宮良川、ポンコツ車と石垣男児」の回に書いたが、私はこの1976年の沖縄旅行の後、1978年に再び石垣島を訪れている。この時は仕事だったために、羽田から飛行機で那覇を経由して石垣島に直行し、帰りもどこにも寄らずに羽田に帰った。石垣島も川平湾周辺にかぎられた。
 そして、それを最後に沖縄には一度も行ってない。あれから、28年が経った。

 沖縄に行かないと決めたわけでもなく、機会がなかったのだ。沖縄に一度も行ったことのない家族は、しばしば沖縄に行ってみたいと言っていた。私は私で、国内はだいたいのところには行ってしまったので、海外をもっと見て回りたいという気持ちの方が強かった。
 しかし実際のところは、沖縄に行きたいと思いつつも、いったい沖縄のどこに家族を連れて行ったら良いのか判らなかった、というのが実際のところかもしれない。短い旅行で、どんな沖縄を見せてあげればいいのか・・・沖縄は島が広い範囲に点在していてあまりに広すぎるし、その島の一つ一つが個性的で多彩だし、自然・風土・歴史のどれ一つをとってもあまりに深すぎるのである。
 八重山に連れて行くのが良いのか、沖縄本島に連れて行くのが良いのか、それとももっと違う島に連れて行くのが良いのか・・・はたと、困ってしまうのである。いろいろな島に行けばよいのだろうが、それには時間も金もかかる。国内なのだから、いつでも行けるという気持ちもどこかにあったのかもしれない。

 それともう一つ、30年前の思い出を壊したくないという気持ちも、心のどこかにあったかもしれない。1976年に本部半島に立ち寄り、那覇からのその道すがら、変わりつつある沖縄の予兆を見たような気がする。そして、その頃から観光化する沖縄のニュースや沖縄に行った知人たちの話を聞くたびに、私は戸惑いを覚えた。私の中にある沖縄とは違うものを、みんなは求めているのではないか?

 現在の私の中心には、30年前の沖縄がある。私が沖縄の旅で得たものはあまりに大きかったし、私の人生観や価値観に大きな影響を与えた。青年となっていた私にとって、沖縄は新たな出発点でもあった。東京が私の生まれ育った故郷とすれば、沖縄は私の心の故郷だった・・・

 このシリーズを書き進めていくうちに、私はもう一度、沖縄を訪ねてみたいと思うようになった。沖縄に関するさまざまなホームページやブログを読むうちに、何が変わって何が変わっていないのかも、おぼろげに判ってきたような気がした。それを確かめに行きたいと思う。

 そう、このシリーズのテーマは「貧乏旅行」旅とは何かであった。
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 私が若い頃に観た映画に「旅の重さ」というのがある。1972年の公開で、高橋洋子演じる少女が、家を出て四国遍歴の旅に出る。閉塞感のある家庭、それを一歩出ると、真っ青な空と眩しい光があった。澄み切った青空、照りつける夏の太陽、湧き上がる入道雲・・・少女の目の前には自然の輝きとエネルギーが満ち溢れていた。少女は旅の中で、力強く生きる人々と出会い、そこに自分の生き方を見つけていく・・・

 前にどこかで書いたと思うが、私は学生時代に日本各地を一人旅した。思い出に残っているのは、名所や旧跡よりも、風景や人である。その中で特に印象に残っているものを挙げると、九州・五島列島の畳敷きの教会。朝の礼拝が始まる前に、外国人の牧師が教会の横で生け花を切り、日本人の中年女性の信者が畳敷きの教会の祭壇を掃除していた風景が忘れられない。
 四国・宇和島の蜜柑舟、海の岸にせり出した蜜柑を舟から摘む風景も忘れられない。北海道・礼文島(れぶんとう)の海辺で、採りたての鮑をオバサンがくれたこと。長万部(おしゃまんべ)の駅の乗換えで時間が空いてしまって、町を歩き回ったこと。サロベツ原野をとぼとぼ歩いていたら、駅まで車に乗せてくれた女性。岩手・渋民の残雪の残る牧場と、林の中の雪解け水にひっそりと咲いていた水芭蕉。
 上野行きの列車で乗り合わせた少年。彼はあてもなく単身上京する途中だった。東京が近づくに連れ不安が心に芽を出したのか、私にしきりに話しかけてきたっけ・・・

 一人旅をしなくなってから久しい。あてのない旅をしなくなってから久しい。社会人となって時間が限られるようになり、家庭ができてからは行動と財布が限られるようになった。そして、いつしか私も若くなくなった・・・
 旅をするなら若いうちが良い。若いうちに広い世界を知った方が良い。未知の世界、未知の出会い、未知の体験・・・その中から未知の自分に出会える。新しい自分に出会える。それが、これからの長い人生の糧となる。

 人生の先が見えてからの旅なんて・・・いやいや、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず・・・松尾芭蕉が奥の細道に旅立ったのは45歳の時である。伊能忠敬が全国測量の旅を始めたのは56歳の時で、72歳まで旅を続けたそうな。

貧乏旅行(42)─ジープでのドライブと黒島のヒッピー

 黒島仲本の民宿で昼食を食べていると、民宿のオジサンに東筋(アガリスジ)までクルマでお遣いを頼まれた。いつの間にか民宿には、若い女の子が来ていた。高校生だったが、民宿のオジサンにそんな歳の娘がいるようには見えなかった。親戚の娘ではなかったかと思う。
 今朝まではいなかったはずなので、あるいは民宿のオジサンが、何もない黒島で、ただブラブラしている私を見かねて、女の子を呼んだのかもしれない。島には何もないけれど、まあ、若い娘と島をドライブでもさせれば、客サービスになると考えたのかもしれない。
 記憶はあやふやなのだが、娘は石垣島の高校に通っていて、普段は石垣市に下宿していたのではなかったかと思う。その日が日曜日だったのか、あるいは春休みに島に帰ってきていたのか、どちらかだったのだろう。どうせ黒島で、休みの日にすることなんて何もない。テレビを見るか、本を読むか、牛の世話をするか、海を眺めるか、それとも勉強するくらいしかない。

 女の子は、目が大きくて、健康的に日焼けした可愛い娘だった。Tシャツに、膝までのジーンズを履いていて、いかにも快活な島の娘という感じだった。彼女を民宿のジープの助手席に乗せて、東筋の郵便局まで運転した。
 ジープを運転したのはその時が初めてだった。普通、乗用車はハンドルを左右に1回転半させると、いっぱいに切れる。そのジープは1回転させただけでハンドルがいっぱいに切れたように思う。つまり、ハンドルを少し回すだけで、クルマが左右に振れるのである。
 ジープは悪路を走るために、少しのハンドル操作でも細かく曲がれるようになっているのだろう。しかし逆にいえば、タイヤを取られたりすると簡単にハンドルが動くため、安定性の悪いことこの上ない。しっかり握っていないと、すぐにハンドルを取られるし、とにかく忙しくて、ゆったりした運転ができないのである。

 初めはジープの運転に戸惑ったが、ハンドル操作に慣れると、その不安定さが結構楽しい。東筋の集落に着くと、娘がジープから降りて郵便局に小包を預けた。用事はこれで終わりである。後は、娘の道案内でクルマを走らせ、ドライブを楽しむこととなった。
 ドライブとはいっても、周囲12キロあまりの狭い島である。そんなに走るところなどない。保里の集落まで走ると、折角ジープなんだからということで、西の浜の砂浜を走った。さすがにジープだけあって、砂浜も平ちゃらである。砂にタイヤを取られ、ジープが小刻みに曲がるたびに、娘はキャッキャ、キャッキャと喜んだ。
 この西の浜には海洋研究所があった。改めて調べてみると、八重山海中公園研究所となっている。記憶では、東海大学の研究施設だったように思うのだが、勘違いかもしれない。
 西の浜はウミガメの産卵地として知られている。その浜をジープで走ったのだから、あまりマナーが良いとはいえなかったが、まあ、そんなのんびりした時代だった。

 民宿の近くに、庭の広い昔ながらの赤瓦の民家があった。民宿の主人の話では、民家は空き家になってしまったのだが、今は本土から来たヒッピーが住んでいると言った。
 ヒッピーというのは、最近は耳にしなくなった言葉だが、1960年代後半にアメリカで生まれた、既成の価値観や社会を否定して自然で自由な生き方を目指した若者たちで、70年前後に日本にも広まった。当時、確かにジーンズに長髪、バンダナといった、ヒッピー・スタイルの若者が新宿などにもいたが、実際にヒッピーだったのか、それとも格好だけだったのかはよく判らない。新宿西口広場に集まって、ベトナム反戦を唱えたフォーク・ゲリラと呼ばれた連中に、ヒッピーがいたのかどうかもよく判らない。ただ、地方でヒッピー的に暮らしたり、自給自足の共同体を作ったりした者たちは確かにいた。

 黒島のヒッピーは、空き家を借りて陶器を焼き、砂浜の貝殻でアクセサリーを作って、石垣港で観光客相手に売っているという話だった。そういえば、確かに石垣港の道端で、アクセサリーを売っているヒッピー風の若者がいた。彼がそのヒッピーだったのかどうかは判らないが、黒島のヒッピーは、その時は石垣島に出張中で、留守だった。貝殻の原価はゼロ、それをアクセサリーにして、500円だか800円だかで売っているという話だった。
 手間賃を考えればそんなものかもしれないし、当時の石垣島の物価を考えれば、本土客相手の観光地価格を良く心得たヒッピーだったのかもしれない。たぶん、当時の原宿の歩行者天国で売ったとしても、似たような値段だっただろう。当時、原宿には踊りやパフォーマンスの若者たちが、日曜日になると大勢集まっていた。

 その後、黒島のヒッピーはどうしたのだろう。30年前と同じように、工芸品を作りながら、今も黒島で暮らしているのだろうか。それともどこか別の場所に移っていったのだろうか。
 振り返ってみれば、彼こそが、現代文明に逆らって、黒島で「りゅうきゅうねしあ」そのものを体現しようとしてした人間だったのかもしれない。もし黒島に居ついて、今も暮らしているのだとすれば、彼の目に、八重山のこの30年間はどのように映っていたのだろうか。

 そして黒島は、今も「りゅうきゅうねしあ」の聖地たりえているのだろうか。



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