東京地名考─さらば三原橋地下街、三十間堀川と三原橋(中)

三十間堀川の西に面した側は、早い時期に三十間堀町と呼ばれるようになった。寛文10-13年(1670-73)刊行の新版江戸大絵図には三十間堀に沿って、三十間堀町の町名が載っている。(新版江戸大絵図)
![]() 新版江戸大絵図 |
![]() 御府内備考 |
![]() 武州豊島郡江戸庄図 |
![]() 新添江戸之圖 |
![]() 元木挽橋際公衆便所 |
三十間堀町は1~8丁目まであって、現在でいえば、京橋から新橋までの銀座通りから一本東銀座に寄ったブロックで、それぞれ銀座1~8丁目の東寄りに相当する。
三十間堀町については、江戸後期、文政12年(1829)成立の御府内備考に詳しい。(御府内備考)
三十間堀1丁目と2丁目の間の通りには紀伊國橋が架かり、里俗呼称として「一丁目二丁目横町紀伊國橋通り」は「花町」と呼ばれていたとある。
里俗は土地の習慣のことで、里俗呼称は土地の呼び名のこと。
個々に記述される紀伊國橋は三十間堀川に架かっていた橋で、名前の由来は海側の木挽町に紀州徳川家蔵屋敷があったことによる。
蔵屋敷は紀州から船で運ばれてきた荷を保管する倉庫で、松脂、椎茸、鰹節、塩鯨などがあったといい、これを市中に運搬のために紀州徳川家が紀伊國橋を架橋したともいわれる。
紀伊國橋は寛永9年(1632)の武州豊島郡江戸庄図にすでに見られ、慶長12年(1612)の三十間堀川の開削後間もなく架橋されたと考えられる。
この図には、御府内備考に木挽橋として紹介されている橋がもう一つ架かっているが、三原橋に相当する位置に橋はまだない。(武州豊島郡江戸庄図)
木挽橋は三十間堀5丁目と6丁目の間の通り、現在のみゆき通りに架かっていた橋で、明暦3年(1657)の新添江戸之圖等には三十万橋と書かれている。(新添江戸之圖)
この橋は明治以降も木挽橋として残っていたが、昭和20年代の三十間堀川の埋立後、現在はみゆき通りにある元木挽橋際公衆便所にその名を残すのみとなった。
三十間堀町についての御府内備考の記述に戻る。
里俗呼称として、三十間堀1~4丁目は「銀座何丁目裏河岸」、5~6丁目は「尾張町何丁目裏河岸」、7丁目は「竹川町裏河岸」、8丁目は「出雲町裏河岸」と呼ばれていた、とある。
銀座の由来については改めて書くまでもないが、江戸開府後、銀座と呼ばれる銀貨鋳造所が置かれたことによる。
もっとも町名としては新両替町が正式名称で、1~4丁目まであり、御府内備考には「以上四ヶ町銀座何町目」と俗称していたと書かれている。
両替は、銀地金を銀貨にして引き換えることで、周辺には両替商などの金融業者が集まった。
先述したように、江戸開府時、銀座周辺は干潟で、埋め立てによって町が作られた。
この江戸城の築城、埋立といった町づくりを担ったのが徳川の臣下となった大名たちで、築城・町づくりは天下の大事業。こぞって忠誠を示すために、各藩の資金・資材と労働力が駆り出された。
そして銀座に限らず、海岸・池などの埋立地にはそれぞれ担当した藩の名や地名が付けられたりした。
尾張町、出雲町もその一つだが、竹川町ははっきりしない。
木挽町は江戸城築城のために木挽、材木職人が多く住んでいたことによる。
以上が三十間堀川とそれに因む町の名の由来。
三原橋地下街からはだいぶ遠回りしてしまったが、次回はいよいよ三原橋の話。